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稲門倶楽部100周年記念フォーラム
稲門倶楽部100周年記念フォーラム 11月21日
早大井深大記念ホール
かつて早大安部球場があった地に、野球部100年間の雄が集った。11月21日に行われた稲門倶楽部(早大野球部OB会)100周年記念フォーラムに、各年代のOBと現役部員が出席。石井連蔵氏(昭32商卒=第9・14代野球部監督)らの基調講演で幕を開けた後、年代別に分けられた4部構成の講演が行われた。第1部では広岡達朗氏(昭29教卒、元プロ野球巨人)らが、戦後の早大野球部の様子を述懐。第2部では石井氏と当時捕手だった野村徹前監督(昭36政経卒)が早慶6連戦の思い出を語り、続いて谷沢健一氏(昭45二文卒=元中日)や岡田彰布氏(昭55教卒=現オリックス監督)らが当時の練習秘話などを明かした。第3部では安部球場から現在使用されている東伏見グラウンドへの移転をテーマに、小宮山悟氏(平2教卒=元千葉ロッテ)らが講演。第4部では和田毅(平15人卒=現ソフトバンク)や青木宣親(平16人卒=現東京ヤクルト)といった現役のプロ野球選手が顔をそろえ、早大史上初のリーグ戦4連覇の偉業について語った。

「早大の選手には野球界の伝道師になってもらいたい」と、現役部員たちに向けて広岡氏は力強く訴える。戦後まもない日本は食料に恵まれず、それは当時の野球部員も例外ではなかった。厳しい生活環境と規律の中で育まれた、早大野球部員の精神力。当時の大学野球は人気、実力とも日本球界の頂点に達しようとしていた。スポーツ新聞の一面に早慶戦、プロ野球が中面で扱われることもしばしば。それだけに、「東京六大学の選手たちがプロ野球人気を高めた」と広岡氏は語る。常に野球界を第一線で引っ張ってきた人物だけに、その言葉には重みがあった。

「早慶6連戦は野村の顔で勝った」(石井氏)。壇上のスクリーンに映し出された写真には、捕手として本塁を死守する野村前監督の鬼気迫る表情があった。前節の明大戦で惨敗を喫し、優勝は絶望と思われていた1960年春。しかし早慶戦で勝ち点を奪取した早大は、慶大と首位に並び優勝決定戦に持ち込む。第4、5戦をいずれも引き分けて迎えた第6戦、3-0で勝利した早大が歴史的戦いを制した。この6連戦でエース故・安藤元博氏(昭37教卒=元東映)は実に49イニング、564球の熱投。この戦いから来年で50年が経過するが、それでもなお語り継がれるゆえんを垣間見た。
「田淵(法大)の本塁打、谷沢の打率、高田(明大)の連続ベストナインの記録をすべて塗り替えろ」と、石山建一監督(当時=昭40商卒)に入学時から期待されていた岡田氏。「1年生の時の軽井沢合宿で体重が13キロ減った」(岡田氏)というほどの猛練習をこなし、通算打率3割7分9厘と81打点の東京六大学記録を樹立した。石山監督の最後の采配となった3年秋には早慶での優勝争いを制して優勝し、岡田氏は三冠王を獲得。「プロ入りへの自信がついた」と語る、大きな優勝だった。
「もしケイオーが練習していたらどうする?」という石井監督(当時)の呼びかけで行われた雪上ノックを、小宮山氏はいまだに忘れられない。技術よりも精神面を鍛えられたという当時の練習は、とにかく打って投げて走ることの繰り返しだった。「(馬術部の)馬に負けないくらい走った」おかげで、「44歳になるまで投げ続けることができた」という小宮山氏。「1日24時間を有効に」活用した結果が、後の人生にも活かされていることを明かした。
「ワセダじゃなければプロには行けなかった」と言い切るのは和田。いまでは日本を代表する投手となった左腕も、大学入学時の最高球速は120キロ台後半だった。その後、投球の動作解析を取り入れたことにより球速が飛躍的に向上。「後にも先にもない」というほどの走り込みを経て、東京六大学の通算最多となる476奪三振を記録する絶対的なエースとなった。4年生の春秋に優勝し、早大史上初の4連覇への足がかりをつくった和田。しかし、その原動力は3年生まで優勝することができなかった悔しさだという。「だからこそ、4年の時に絶対勝つという気持ちでいけた」。第100代主将への就任が発表された斎藤佑樹(教3)についても、「(今秋は優勝を逃し)斎藤君たちは悔しいだろうし、一番悔しいであろう斎藤君が主将になることで、また強いワセダになるのでは」と期待を寄せた。
式典終了後、斎藤佑は「歴史の重みをひしひしと感じました。今後は第100代主将として新たな1ページをつくりたいです」と語った。伝統の重みを学び、新たなスタートを切る早大野球部。受け継がれてきた栄光の歴史をその胸に刻み、これからも歩み続けることだろう。(田村航平)

新スタッフの発表をする応武監督
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